家元のよみもの Vol.38 私にとって花をいけるということ
「精神性」という言葉があります。
よく耳にする言葉ですが、改めて精神性とは一体何なのだろうとしっかり考えてみたくなりました。
一見、ものすごく高尚で難しい思想を持つことのように感じますが、実際はそうではないように、私は思います。
人は、順調なときには穏やかでいられます。
人に優しくすることもできます。
けれども、自分の思い通りにならないとき、心に余裕がないとき、自分とは違う考えに出会ったとき、そんなときに、その人が何を大切にし、どのようにそのことに向き合うのか。
そこに、その人の精神性が表れるのではないでしょうか。
人に対する敬意。
感謝する心。
相手の立場を思うこと。
そして、たとえ親しい間柄であっても、礼節を忘れないこと。
どれも特別なことではありません。
しかしながら、日々その気持ちを持ち続けることは、決して簡単なことではないと思います。

いけばなも、どこか似ています。
美しい花をたくさん集めさえすれば、美しい作品になるわけではありません。
一本の枝をよく見て、その形や向きをよく眺め、丁寧に整えていく。
花であれば、それぞれの個性をいかしながら、その花が一番輝く場所を見極めていく。
花を自分の思い通りに扱うのではなく、花そのものを尊重し、その姿や命を大切にする、そこにある魅力をいかしていくのです。
いけばなは「引き算の美学」と言われています。
余計なものを削ぎ落としていくことで、その花が本来持っている美しさが見えてくる。
それは、人の生き方にも通じるように思うのです。
自分をよく見せようとすること。
人からどう評価されるかを気にすること。
自分の正しさだけを主張すること。
そうしたものを一つずつ取り払っていったとき、最後に残るものは何なのでしょう。
肩書きでもなく、知識でもなく、その人が何を持っているかでもない。
その人が、目の前の人や物事にどのような心で向き合っているか。
精神性とは、語るものではなく、日々の振る舞いの中に自然と現れるものなのかもしれません。

花は私に語りかけてきます。
そこに在る花と対峙する時、静かに見つめ、会話をするような気持ちで、その花を輝かせようと自然に手が動きます。
そうして花と向き合っていると、同時に自分自身とも向き合っていることに気づきます。
今回、「精神性」について改めて考えたことで、私にとっていけばなを続けるということは、技を磨くだけではなく、自分の心を整え、自分の在り方を問い続けることでもあるのだと思いました。
花とともに生きてきた今、花に向き合う心も、人に向き合う心も、同じなのではないか、と感じるのです。
だからこそ、これからもずっと、花にも人にも真摯に向き合っていきたいと強く思います。
梶井宮御流
第二十一世家元
一松斎 藤原素朝





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